2014年 05月 18日
悲しみは愛されないからではなく、愛を表現できないゆえの痛み。
皆さんこんばんは、御崎絢です。
先日ご案内と受付を開始しました無料・一斉ワーク「聖なる自分への完全降伏」 に、ご案内すぐから本当にたくさんのお申込みをいただき、驚きと感謝でいっぱいにここ2日を過ごしています。
今回の一斉ワークは、どんな方にも安全かつポジティブな現象が起こるような手法で行わせていただきますので、生まれたばかりの赤ちゃんからお年寄りまでご参加いただけます。
特に子供の場合、効果がすぐには目には見えないかもしれませんが、ワーク後の長期にわたってその子供が喜びのままに自分を表現することを助け、そしてその喜びの表現によって子供が自分を創造し、自己を確立していけるよう意図してワークを作っておりますので、お子さんへのワークをご希望の方は遠慮なくお申込みになってくださいね。
一斉ワークご案内開始すぐから、お申込みくださる方々と、そしてこれからお申込みになるであろう方々とのご縁がつながり始め、その皆様に内在する悲しみが私に押し寄せてきて、そのどうすることもできないような思いに胸が詰まってむせび泣いてしまいました。
その悲しみをただじっと感じ続けていて思ったのが、恐らくこの悲しみを持つ方々の多くが、愛されないことから、あるいは自分は愛されていないと感じていることから悲しみが生じていると認識しているということです。
愛されないから、愛を感じられないから、悲しい。そう思っていると感じました。
けれど私は、愛されないからではなく、ご自身が愛を表現できないことに悲しみを感じておられるのではないかと思ったのです。
愛されないと感じることは、確かに悲しいです。
でも本当は、自分の愛を表現できないことこそに、悲しみを感じるのではないでしょうか。
私たちが本来愛の存在であるのならば、愛を表現することがある意味では最も私達らしい在り様で、愛を表現しているその瞬間こそが、私たちが最も「自分」を感じられる瞬間なのだと思います。
だとすると、愛を表現できないということは、私達にとって自分が自分ではなく、自分を確認できないということです。
自分が何者なのかがわからず、自分がここにいることすらはっきり感じられない…これは、自分の存在自体があるのかないのかすらわからない状態です。
自分がここにいて、生きていることに何の意味も喜びも感じられないということです。
このような存在の在り様に、深い深い悲しみが生じるのは必然だと思います。
あらゆる人に、この「愛を表現できない悲しみ」が内在していると私は思います。もちろん私自身にも、です。
人間は愛を求めて生きる存在だから、愛されたいと願うのはとても自然なことです。
でも人間としての私達以外に、私達には「自分」が存在しています。
ハイアーセルフと呼ばれる霊的な自分や、宇宙とひとつであるところの「私」です。
その人間を超えた存在である私達が、人間として愛されたいと思う以上に、ただ愛を感じ表現したいと痛切に願っているように私には思えるのです。
愛はとても幅広いもので、「愛とはこういうものだ」という定義づけはできません。定義すること自体が無意味です。
大切なのはその瞬間に自分が「愛である」と感じるあらゆることを、思いで、言葉で、行動で、オーラで、エネルギーで、あらゆる手段で表現することだと私は思っています。
愛を表現することに、理由は必要ありません。
ただ愛であると感じるままに表現することで、自分の愛を深め、相手の愛を刺激し、愛を呼び、愛を広げていくのです。
その先に「あれは愛ではなかったかも」と思うこともあるかもしれません。
それでも私達はその瞬間瞬間に、自らが「愛である」と感じることを表現することでしか、「愛を生きる」ことはできないと思うのです。
「聖なる愛の体現者として生きる」ことは、いつも自分が穏やかないい気分で、幸せだけを感じながら生きることではありません。
私たちがこの地上で肉体をもって生きる限り、怒りや悲しみが消えさることはないからです。
肉体という限りある器を持って、人と関わりながら有限の生命を生きる限り、いわゆるネガティブと言われる感情が完全に消えることはないのです。
誰だって、自分が不当に傷つけられれば怒るし、大切な人が亡くなったら悲しみます。それが当たり前です。
それならば、「聖なる愛の体現者として生きる」ということはどういうことなのか…私が思うにそれは、私達にとってどんなにいやだと感じる出来事と感情の裏からすらも、愛を感じとれる状態なのだと思うのです。
あらゆる感情の裏には、愛を求める心が潜んでいます。
怒りにも、悲しみにも、憎しみすらも、その底には愛を求める心が隠されています。
相手を傷つけるという行為の裏にも、愛を求める心があるのです。
人間である以上、一時的にいろんな感情を生じること自体、ごくごく当たり前のことです。
でも私達の愛が覚醒し、愛が開けば開くほど、あらゆる事象と感情の裏側にある愛を求める心や愛そのものに気付くことができるようになっていきます。
この世界が本来愛そのものから生まれたのであれば、私たちが愛ではない・愛とかけはなれていると感じることすらも、愛の側面や裏側なのだと思うのです。
私達が表面だけでなく、どんな事象や感情からもその愛に気付くことができるようになっていけば、自然と私達が自分や相手をもっと深く愛していくことにつながっていきます。
愛を感じたその瞬間から、感じたその愛が自分の愛も相手の愛も広げていくからです。
こうして、「愛による奇跡」がこの世界に広がっていくのだと思います。
例え非日常的な現象は起きなくとも、日常レベルでゆるやかに、そして確実に、愛が広がっていきます。
小さな愛の波がやがて大きな愛の波となって、この地上を覆っていくのです。
私は今回の一斉ワークで皆様に、現実的に日常レベルで確実に愛の奇跡を生む存在になっていただきたいと思っております。
聖なる愛の体現者として生きることは、楽しいことだけが起こる状態になることではありません。そんな風に何の嫌な思いもしない楽な人生になれればいいけど、それはこの地上が完全にアセンションを完了するまではとうてい無理なことで、現実的ではありません。
私たちは現実に生きる存在です。例えどんなに些細だと感じられても、現実に愛を表現することでしか大きな愛の奇跡を生み出すことはできません。
肉体を持って、この肉体があるがゆえに様々な感情を感じて生きている私達ですが、それでもどんなところにも愛を感じることは可能です。
今回のワークは皆様に、愛を見出し、愛を表現し、愛を与え愛を受け取ることで、小さくとも確実な愛の奇跡をそこに生む存在になっていただくという目的で行います。
今ここにある愛、どんなところにでも、どんなに小さくとも、そこに確実にある愛。
どんな愛もしっかりと感じられる、そして感じるままに愛を表現できる、聖なる愛の体現者…皆様と共に、私も臆することなくそこに向かっていこうと思います。
ちょっと書くだけのつもりが、またまた長文になってしまってすみません。
最近伝えたいことが多すぎて、溢れ出すと止まらなくなっている私です。
私なりにもっともっと愛を表現したいと感じているのだろうと思います。
もっとたくさんの方に、もっと多くのことを伝えていきたい…そのためにもっと工夫をしなければとも思いますが、まずは今できることを確実に行っていくことで、その先につなげていきたいと思います。
最後までご覧くださって、本当にありがとうございます^^
by rebirth_aya
| 2014-05-18 23:54
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